あぁ、まったくついてない。
こんな時に限って、どうして彼はあらわれるのだろう。
いや、ここは高校の図書室。目前の読書好きが、この場に来たところでなんらおかしくはない。さらにいえば、毎日のようにこの図書室に通う彼が、今日に限ってここに現れない確率の方が低かった。
でも、彼がいつも図書室に来る時間にはまだ早い。今は部活の真っ最中のはずだ。現に外からは部活動に勤しむ声がひっきりなしに聞こえてくるし、彼自身もユニフォームを着ていた。それどころか、彼の右手にはラケットが握られたままだった。
なんだ、それで私の頭にレーザービーム撃ちかますつもりか。ボールないけど。
現実逃避に脳内ボケをする私の前に立ちふさがって、柳生はラケットを静かに壁に立てかけた。
「部活、」
「抜けてきました」
「サボリ」
「そうなりますね」
「怒られる」
「でしょうね」
2歳児のような単語しか言わない私と会話を成立させ、柳生はあごを伝う汗をうっとうしげに手首のリストバンドで拭った。
本棚の間に隠れるようにしゃがみこんでいたから、逃げ出すのが遅れた。背後は壁。目前には長い脚。頭上には、私の顔をのぞきこむように中腰になった彼の顔が間近にある。
その切れ長の目に、いまの自分の顔を映したくなくて。
私は彼の大きな上履きの先を睨みつけた。
「どうぞ」
差し出された手のひらには、モスグリーンのハンカチ。わかっていますよ、と言わんばかりのいつものハンカチ。
「いらな、い」
語尾がふるえる。
ふ と、ため息に似た息が左耳をくすぐった。
ああ、わらわれたのだ。
瞳に集まりこぼれそうになる水を、何度もまばたきをして散らす。
泣くな。泣くわけにはいかない。泣いてしまえばまたいつもの繰り返し。ずるずる、消えかけた白線の上を通って、また同じ場所に白線を引き直して。なんの意味もない。
「藤枝さん」
呼ぶな、呼ぶなよ。絶対に呼ぶなよ。
私をとろかすあの声で、瞳で、私をよぶなよ。
ぎゅっと目を瞑って、熱湯の湯船の上で「絶対に押すなよ!」とすごむお笑い芸人を思い浮かべる。
ぷるぷる震える二の腕と、たるんだお腹がご愛嬌。
笑え、笑うんだ私。笑って、「いらない」と、笑って、白線を消さなくちゃ、でなきゃ、
「藤枝」
優しく、長い指にあごをすくわれて上向きにされる。流れるように耳の付け根までたどった指が、私の髪をすくう。
「藤枝」
いつもより高い声。どこかひとを茶化すような軽い、それでいて耳に心地よい、カレのような彼の声。
熱湯の中にお笑い芸人が落ちていく。
白線が追加される。
涙をこぼしながら開いた目に映るのは、眼鏡を外したカレによく似た彼の瞳。
「身代わりで、いいから」
柳生と、呼べないまま、私は彼の手にカレを想ってまたすがりつく。